こんばんは。まだ事務所。そろそろ帰ろうと思っていますがその前に一言だけ。
今日は先般よりはじめた毎週火曜日のナイター相談の日であった。午後の7時からと,8時から,計二人の相談の予定を入れていたので,それをそれぞれ了し,トレイにたまった資料の整理などをしているうちにこの時間に,,,いかん。
今日の相談は,事業者の多重債務に係る事件と,相続関係の事件の二種。後の相続事件の相談においては,相談の本体たる相続の話とは別に,数百万円程度の貸金返還請求の相談も併せて行う。
この貸金返還請求,,,契約書等等証拠物は相当に揃っているので,しかるべき法律のステージに乗せれば,判決は当然にとりうるもの。つまり,裁判に勝てることに疑いが無いもの。しかし回収可能性はほぼ零に近い。
さて,一般の方がよく思い込んでおられることに,権利があって,裁判に勝てれば必ずお金が返ってくるものだ,という幻想がある。それは無理もない。自分には確かに権利があって,裁判所にまでいっているのにお金が回収できないことがあろうか,とする論理には矛盾が無い。
しかし現実はそうなっていない。私人の貸金請求,すなわち私人間の権利義務については,国家は,権利者の最終的な満足を担保し,保証するものではない。無論相手に財産や収入があって,強制履行を求めうる場合はよいが,相手に何もない場合はどうしようもない。いや,何もない人というのも結構いるのだ。
そんなのかわいそうじゃないか,何とかしてあげないと,とも思う。しかし何とかしてあげようとすれば,その責任を負担するのは他でもない国民。いわゆる私自身,あなた自身。この事件に関係ない国民の税金等によって,この権利の充足を支弁するほかない。しかしこれにはやはり多くの理解は得られない。よって,現状がごとく,無資力状態の相手方をもつ権利者は,泣き寝入りをせざるを得ないのだ。
では,権利は確かにあるし,訴訟には勝てるが,結局回収できないであろう場合はどうするか,訴訟をするのか,経済的価値を優先し,あきらめるのか。
これを論じた代表的な書物が,イェーリングの「権利のための闘争」である。司法書士試験の勉強をしている時代に,辰巳法律研究所という予備校の加藤とおっしゃる弁護士の講師が憲法の講義の中でこれくらい読め,といわれたのを契機に文庫を仕入れた記憶がある。
書の中では,「権利」というものの本質が語られる。ジョンロックやホッブスが論じたように,人民は,それぞれが他害または他害の危険性を引き起こす「自然状態」の恐怖から身を守るため,人民同士の「社会契約」,すなわち「法」によって,人民自身の権利を守る統治機構,国家権力(それが絶対王政であるか市民政府であるかを問わず)を正当化した。
自分自信の権利を守るため,自分が他人にされては困る行為を法という社会契約によって規定し,それを実行あらしめる手段を確立したのである。
ここから当然に,社会契約によって権利の保護を受けうるのは,社会契約を遵守するものだけであり,たとえば泥棒に人権はない,という論理が導かれる。泥棒を見つければ殺してもかまわないということになる。なぜなら,人は人を殺してはならない,という命題は,社会契約によって規定されるのであるから,泥棒をしてはいけない,という社会契約を破ったものは,同じ社会契約によって保護される権利をもたないからだ。
またこうも述べられる。そのように人の権利というものは価値あるものであり,人権獲得には人類の多くの血がながされている。故に権利の侵害とは人類の英知の侵害であり,断固としてこれと戦わなければならない,と。一つの権利の侵害を許すものは,際限なく自己の権利を侵害されることになる,と。権利侵害と戦うことは市民社会の義務ですらあるというのである。
さらに具体的に続く。故に民事訴訟を提起するかどうかの判断をする際に,「経済的にあう」かどうかなどということを基準にしては決してならない。いくら費用がかかろうとも,権利そのものを守り抜くために,小さな権利侵害をアリの一穴として,ずるずると権利侵害をされないために,純に権利を守ることのみに専心し,断固として戦わなければならないのだ,,,(ちなみにイェーリングは弁護士であった)。
さて,,,話を戻そう,,,私も普段の相談に際して,そうアドバイスするべきか。これはあなたの権利が侵害されているから,断じて許してはならない。お金の問題ではない。生活費を削ってでも,また多くの時間をかけてでも訴訟をすべきだ!!と。
私は哲学者ではなく,革命者でもないから,また今日も,「しかし回収できる見込みはほとんどないですねぇ。どうしますか,それでも訴訟しますか,あとはご自身で判断してください」などと言ってしまうのである。
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